JR関内駅徒歩3分。古いビルの屋上に、小さな灯がともった。細い階段を上ると、そこは天井も壁もないバー、店主は齋藤天馬さん(60)。35年務めた教師を春に退職し、教え子たちの助けを借りながら作り上げた店だ。木製デッキ、白い天幕、手描きの絵…。生徒たちのアイデアがちりばめられたその場所は、天馬先生の教師人生の結晶のよう。星空を見上げ語り合う「TheBar(バー)Tenmar(テンマー)」、今宵(こよい)も開店の時刻を迎える。
天馬先生の教員生活は1974年、25歳のときに始まる。大学を卒業後、3年勤めた通信社を辞めて横浜市立校の教師になった。
初任地の中学は「ひどく荒れていた」。窓ガラスは割られ、屋上の階段にはシンナーの一斗缶を見つけた。けれど人柄に引かれるように、生徒たちは天馬先生を慕った。卒業後も家を訪れる生徒もいた。その中に15歳の湖(こ)出(いで)岳(たかし)さん(49)もいた。
湖出さんは今、設計士をしている。家出をしていた16歳、石川町駅前の運河に係留された廃船ギャラリーに出入りしていたころに建築に興味を持った。自分の好きなことを仕事にしたのは「人生は楽しく生きる」天馬先生の影響を受けている。天馬先生が県立高に転職しても、生徒たちとの関係は続いた。
「お互い変わらなかったから、いつ会っても面白かった。天馬先生はいくつになっても、つまらない男にはならなかったよ」
天馬先生は生徒達に、バーの夢を語っていた。設計監理は湖出さんにお願いするつもりだった。定年を春に控えた昨冬、具体的に話が進み始める。場所は天馬先生の母親の実家、関内駅近くのたばこ店の屋上。けれど2階建てのそのビルは、築50年を過ぎていて増築ができない。湖出さんは提案する。「屋根も壁もなくていいじゃない」
雨の日、風の強い日、冬の寒い日はお休み。自然のままに営業するバーだ。「“冷暖房不備”なんて今どき珍しいでしょう?」と、天馬先生は胸を張る。カウンターにいす10席と、立ち飲み用のスペース。雨に強い木製デッキと船舶照明、天幕は、さながら船を連想させる。天馬先生の新しい舞台づくりに、教え子たちは次々と協力の手を挙げた。
屋上に続く階段のシャッターには、最後に勤めた県立高の卒業生の女性が絵を描いた。別の卒業生はホームページ(HP)の立ち上げと運営を手伝う。天気の気まぐれで休業するときは、HPで知らせるようにした。
1日の開店を前に開いた5日間のプレオープンには、勤めた5校の卒業生や近くの住民300人近くが訪れた。店の隅には、湖出さんたちが贈った白金のシェーカーが光る。
「誰よりいい教員人生を送った自信があるけど、これからもっといい時間を過ごそうと思っているんだ」。にやりと笑う天馬先生。湖出さんはそれを見て言う。「大したもんだよ。うらやましいな」―。