支局長からの手紙:「遺言」代わりの記録 /高知

「今こそ踏みしめる故国の土、その第一歩は裸足(はだし)だった」

 早野朝子さん(79歳)=香南市野市町西野=はそう記しています。当時16歳。ソ連占領下の咸興(ハムフン)(現在の北朝鮮)から母と妹3人と弟の計6人で、1946(昭和21)年6月、命からがら山口県・仙崎港に引き揚げてきました。終戦1年前の44年夏に志願して、海軍軍属として中国の海南島へ向かった父の行方はわからないままでした。

 早野さんは北朝鮮からの引き揚げの苦難を80枚の絵に描き、展示を続けています(08年7月7日「イムジン河を渡れ」)。その続編「戦後・動乱の時代を生きて」が昨年秋に完成しました。手書きの文章と絵は、大学ノート91ページにも及びます。最後を読んで、胸が詰まりました。36歳の若さで、16~2歳の5人の子を無事に引き揚げさせた母・安部静子さんの命が尽きるのです。享年47。帰国後も苦労は絶えませんでした。

 帰国した一家は、福岡・小倉の引き揚げ寮で仮住まいします。早野さんは高等女学校に転入します。学校をやめさせては「お父さんに申し訳ない」。母は焼け跡の市場で蒸しイモを販売したり、和裁や編み物をしたり。配給生活の中、米国映画にひかれた早野さんに入場券代を握らせてくれました。

 翌年夏、父が帰還。あばら骨が見えるほどやせこけていました。「母一人で頑張ってきたのでほっとした」。僚船2隻が沈没した体験を父が語ると、母は引き揚げの苦労を語ります。父は家族の半数は死亡と覚悟していたそうです。

 熊本・球磨川のダム工事現場で働くため一家7人で引っ越し。父は送電線の請負事業を起こし、母は電気工の賄いをしましたが、事業不振に陥ります。なけなしの家財が持ち去られました。父の朝鮮時代の上司を頼って高知へ。母は農作業を手伝う傍ら、婦人会でキムチ作りを指導しました。

 57年、父が建設会社に採用され、ビルマ(現ミャンマー)行きが決まりました。「遂(つい)に父の輝く時がきた」。土佐山田駅から出発です。列車のデッキで手を振る父を、母が満面の笑みで見送りました。父が見た母の最後の姿でした。

 早野さんにとって、北朝鮮からの引き揚げが知られていないのが、残念でたまりません。帰国を夢見て絶命した人たちの慰霊碑を北朝鮮に建てるのが悲願です。大阪に住む小中生の孫2人に常々言ってあります。「この絵は私の遺言。大人になったら必ず読んでね」

 母が不調を訴えた時は手遅れでした。直腸がん。病状を知らせると、ビルマの父から手紙が届きました。郵便事情で手元に届くのが遅れ、母は読まずじまいで息を引き取りました。57年10月。こんな言葉を残して。「お父さんが帰ったとき、こんなお婆(ばあ)ちゃんでもいなかったら寂しいだろうね」

 早野さんは懐かしみます。「ワンマンな父に逆らわない母でしたが、子どもを一人残らず連れ帰ったので、『お父さんは頭が上がらないの』と笑っていました」

 父の手紙は開けずに母の棺に入れました。【高知支局長・大澤重人】

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