阿倍野にセレクトショップ「ナサラン」-コーポの一室を改造 /大阪

みんなの経済新聞ネットワーク 9月28日(金)16時32分配信

地下鉄・阿倍野駅近くに9月21日、セレクトショップ「nasaran(ナサラン)」(大阪市阿倍野区阿倍野筋3、TEL 06-7890-7373)がオープンした。(あべの経済新聞)

メンズ・レディスウエアなどを扱う。2階建てコーポの1階部分で、もともとはワンルームの一室。店舗向けに改造を施し、新たにウッドデッキも設けた。店舗面積は約6坪(デッキ部分除く)。店での販売のほか、インターネットで通販も行う。

家主で店主の伊丹基博さんは「服屋にこだわりはなく、居心地のいい『箱』を作りたかった」と話す。扱う服は「長く使えるよう素材にこだわって選んでいる」とも。店名は娘2人の名前から取ったという。

営業時間は10時~20時。木曜定休。

「花園町通り」社会実験の最終案発表 松山市

愛媛新聞社ONLINE 2012年09月25日(火)

松山市中心部の市道「花園町通り」(約350メートル)の再編整備計画で、市は24日、10月25日~11月4日に実施する社会実験の最終案を発表した。南堀端―千舟町通りの約250メートルで市内電車の線路を挟み片側1車線化し、車道と同じ方向に進む一方通行の自転車道(幅2メートル)を設ける。
地元関係者や学識経験者でつくる市の懇談会の会合で示した。
社会実験は、期間中終日実施。通りの5カ所に残した副道以外は原則1車線化する。車道と自転車道の間は分離帯で仕切る。通りの西側には、ウッドデッキ(長さ約29メートル)と芝生(約23メートル)の多目的広場を開設。オープンカフェやフラワーアレンジメント教室などを予定している。

鶴見駅の駅ビル「シァル鶴見」が11月1日オープン、屋上には枯れ山水の庭園/横浜

カナロコ 8月30日(木)9時45分配信

 「横浜ステーシヨンビル」(横浜市神奈川区)は29日、JR鶴見駅東口の駅ビル「シァル鶴見」が11月1日に開業すると発表した。物販や飲食の計71店舗が出店。枯れ山水の屋上庭園や、禅文化を体験できる「禅カフェ」などを配置したのも特徴だ。「心通いあうくつろぎの我が家」をコンセプトに、地元密着型の商業施設を目指すという。

 施設は地上6階地下1階建てで、延べ床面積約1万4300平方メートル(店舗面積約5600平方メートル)。世界的な庭園デザイナーで、地元・建功寺の住職枡野俊明さんが館内各所をプロデュース。寺の多い地域性などを踏まえ、日本文化や禅文化に基づくデザインを取り入れたという。

 1・2階は食料品、3・4階はファッションや雑貨、5階は書籍やカフェ、6階はレストランフロアとした。県内初出店となる仙台牛たんの店のほか、茶室を備えた禅カフェなども。2013年4月には6階に保育園も開園予定という。

 屋上は「月白く、風清し」をテーマに、枯れ山水の庭園を配置。ウッドデッキや自然石なども置き、憩いの場を演出する。

 同社は「ファッションから食、カルチャーまで、近隣住民の生活を豊かにする空間を提供したい」としている。

激変木材業界の象徴【日進逝く】(3)

コダマの核心 2012年10月 5日 10:11
  

<創業者の意地と執念>
 【ニッシン危うし】という評判が立つのは当然だ。数億円との焦げ付きと二大得意先の倒産で売上が激減すれば誰でも不安がるのは至極、当然である。この窮地でさすがだ。創業者・松永篤氏は≪意地と執念≫を発揮した。「不良債権の発生はすべて経営者である俺の責任だ」と事後処理に奔走したのである。銀行巡り、取引先廻り、資産売却などなど打てる手立てはすべて打った。この期間の過酷な闘いで体は蝕んでいった。

 再生の目途がついたときに松永氏は本音を披露した。同氏は無類の車好きだ。木材業者には似合わない米車を乗り回していた。「コダマさん!!非常に悩んだよ。(愛車を捨てるか、維持するか)の判断に苦慮した」と語ったのだ。解説するとこういうことである。(1)愛車を乗り廻すと「こんな非常事態に松永氏は何を考えているのか!!」と反発される。(2)愛車を捨てて『トヨタマークⅡ』に乗り換えると「あー松永氏もとうとう車も維持できることができなくなるまでに厳しくなった」と見られる。両方のメリット・デメリットを計算した。

 結果、「自分の性分を貫徹しよう」と決断した。愛する米車で関係者先に乗りつけて打撃の克服に東奔西走したのである。売上の落ち込みをカバーするために木材だけでなく新建材・住器類までを取り扱うようになった。縁起を担ぐ松永社長は会社商号の≪再々変≫にも着手した。新商号は【日進】である。再起完了の評価を得るまでには5年間の時間を擁した。1997年ぐらいまでかかっただろう。目途がついた矢先の1998年6月に実子の松永浩典氏を取締役に抜擢したのである。事業継承の目鼻がついた矢先に創業者・松永篤氏は癌で2001年10月に亡くなった。まさしく壮絶なビジネス人生であったと評される。【木材市場ビジネスのベンチャー】という存在だったのだ。

<輸入建材で復活>
 創業者・松永篤氏は親分肌であった。この人柄に頼って各種多様な人物が集まってくる、情報も集積される。筆者も面識のあった大連出身の中国人がアプローチしてきた。「床材(フローリング)を扱いませんか?」という打診があったのが1996年頃であった。【日進】としてはようやく再起に漕ぎつけ、「次善策をどう打つか?」と思案中の時期であった。要は「中国でラワン・桜材を使用のフローリングを製造して日本に輸入しませんか」という提案であった。当時は輸入建材という用語が流行始めた時と一致する。

 【日進】側も中国との木材輸入取引の実績はあった。だから危惧することなくこの申し出にフットワーク軽く対応した。筆者もこの大連人の案内で中国・昆明に視察に行ったことがある。床材製造工場はしっかりした商品管理が行き届いていた。宮崎県都城市の木材加工業者から技術者が指導派遣されていたのだ。この頃までは中国国内では「日本の製造システムに学ぼう」という謙虚な姿勢が保持していた。

 【日進】は瞬く間に≪輸入建材ビジネス≫(フローリング販売)をマスターした。国内の販路も大手商社経由で構築した。同社は≪木材市場≫の業態から≪輸入建材商社≫へチェンジを図ったのである。ここでまた大きな適応作用を実現できた。このフローリング販売のピークは月商2億円にまで膨らんだ。第二創業期、繁栄の時期を迎えたのである